正直言うと、学校生活が嫌いなんです。学校の人が、試験の成績で勝った負けたとか、スポーツで勝った負けたとか…。そういうことに振り回されている気がして、しんどいです。
体育の100メートル走で同級生からマウントとられて、すごい腹が立ったんだけど。
それ言うんだったら、女同士のマウントの取り合いなんて、かなりえげつないからね…。学校生活に支障ありまくりだわ。
今回は、勉強やスポーツ、その他あらゆる場面で遭遇する勝ち負けについて悩んでいる人向けの記事となります。
勝ち負けなんて、特定の世界の勝ち負けに過ぎないのであって、それ以上でもそれ以下でもないです。
勝ち負けに、必要以上の意味づけをするなんて、意味のないことだということを今回は書いていきます。
また、勝ち負けに振り回されずに生きる方法もご紹介します。
こんにちは、アオイソラです。
勝ち負けが単なるゲーム感覚で終わればそれでいいのですが、学校で生活していると、現実にはそう単純ではないようですね。
勝ち負けが、人間関係に影響を与えてしまっているんです。
しんどいですよね…。
もちろん、「負けて悔しい!」という感情を知ることも、人生の学びの一つだとは思います。
「悔しい!」という気持ちを乗り越える方法について、以前こんな記事を書きました↓
そうはいっても、まだやっぱり、勝ち負けに振り回されてしまっているんです。
勝ち負けに振り回されると、特に負けた場合ですが、自分で自分の自己肯定感を低くしてしまう可能性がありますよね。
さらには、負けをこじらせてしまうと、
「どうせ俺なんか…」
「どうせ私は…」
というのが口癖の学生を生み出してしまいそうです。
あ…。口癖ではないけれど、心の中では「どうせ」っていうのを唱えてしまっているかも…!
そういう人に対して、
「諦めずにがんばろう!」
と言うのは簡単です。
がんばるのはいいんだけど、もともと根っこにある「勝ち負け」の呪縛から解き放たれないと、気持ちはスッキリしないのではないでしょうか?
勝ち負けに振り回されたままの状態でがんばって、たとえそれで良い結果を残せたとしても、次にまた、勝ち負けのステージが用意されて、そこでまた勝つためにがんばらないといけません。
それって、
「あなたの人生は、今後一生勝ち負けを意識して生きていかないといけないですよ」
と言われているようなものです。
それって、生きていてしんどくないでしょうか?
「悔しい」という感情を知るためにも、勝ち負けの世界を知ることは必要かもしれません。
でも今って、学生に限らず、社会人も、あらゆる勝ち負けに追いかけられていて、疲れていないでしょうか?
「悔しい」という感情を知るためだけに、勝ち負けの世界に一生を捧げないといけないのか?と思うのです。
…確かに。
さて、今回の記事の結論はいたってシンプルです。
- 夢中になれることをする(※ただし勝敗部分に夢中になるのとは違います)
- 人に喜んでもらえることを無理のない範囲でする(助け合い)
自分の中に自己肯定感が保たれていれば、勝ち負けに振り回されることはありません。
以下、私の体験談をまじえて、もう少し詳しく見ていきたいと思います。
目次
勝ち負けに振り回されて学校生活が嫌いになった過去。勝ち負けが人生のすべてだったけど、意味ないことだったという体験談
ここからは、勝ち負けにさんざん振り回されてきた私の過去の体験談をお話しします。
体験その1、マラソン大会で同級生に負けた経験
小学5年生の時、マラソン大会で失敗して大泣きしたことがあります。
練習では同級生に勝てたのに、大会本番で負けてしまった、という体験です。
詳しくは下記の記事の最後のほうに載せていますので、読んでみてください↓
勝ち負けに関して思い出すのが、このマラソン大会での失敗経験です。
まあ、この体験を通して得たものも確かにあります。
ですが、マラソンで負けたからって、「人生終わった…」と考えるなんて、意味のないことでした。
冷静に考えれば、そんなことで人生終わらないもんね。
私が勝ち負けのことで経験したのはそれぐらいかなと思っていました。
ですがこの前、何気なくお皿を洗っていると、脈絡のない過去の記憶がよみがえってきました。
もう何十年も忘れていた記憶でした。
それが、次にお話しする体験です。
暗い話になっちゃいますが、もう少しお付き合いください。
体験その2、水泳大会でライバルの同級生から言われた一言
この体験もまた、小学5年生の時のことです。
私は水泳の強化選手に選ばれていました。
すごいじゃん。
いや、全然すごくないですよ。
当時の担任の先生が、「強化選手としてがんばりたい人はいる?」と教室でみんなに聞いたんです。
でも、当然ながらみんなやりたくないわけです。
そしたら、その先生が私に向かって、
「○○~!(←呼び捨て)お前なんで手を挙げないんだ!」
と怒鳴り散らかして、結果、やるハメになったのです。
きょ、恐怖政治…!
当時、なぜか担任の先生に目をつけられていたんです。
思えば、私の人生の課題はここから始まっていたような気がします!
昭和を引きずると今の時代は生きにくいと思いますね…。
あっ!話がそれました、すいません。
強化選手に選ばれた手前、真面目にがんばっていた私でした。
種目は平泳ぎ50m。
同じ種目を練習する同級生A君が隣のクラスにいて、放課後に一緒に練習をするのですが、A君の方が泳ぎが速く、私はどんなにがんばってもA君に追いつけませんでした。
がんばって練習しているのに勝てないので、私はもちろん悔しい気持ちで一杯でした。
で、その後のことです。
校内の水泳大会が行われる前日でした。
A君が、わざわざ私のいるクラスにまでやってきて、こう言ったのです。
「お前は俺には勝てない」
え…、と思いました。
なんでわざわざそんなことを言ってきたのかわかりませんでしたが、私は結構ショックでした。
もともと私は、A君には負けていたし、勝ったこともなかったです。
一緒に練習をしてきて、いつか勝ちたいとは思っていました。
でも、わざわざ頑張っている人をつかまえて、わざわざ私のいる教室にまで来て、「お前は俺には勝てない」なんて言う必要があったのでしょうか?
向こうは向こうで、負けるのが怖かったんじゃない?
まあ、結果的に、校内の水泳大会で、私はA君に負けました。
その時、単純に悔しいという気持ちだけですまないような、もっとどんよりとした嫌な気持ちになってしまっていました。
うーん、なんて言ったらこの感情が伝わるのかなぁ…。
言ってみれば、ただの校内の水泳大会なのです。
そんな勝負に、勝負以上の意味なんてないです。
(しかも私が通っていた学校はすごく田舎の学校でした)
それに、A君とは普通に会話を楽しみたかったし、水泳での勝った負けたというのを人間関係に持ち込んでほしくなかったんです。
そうそう、
勝ち負けが人間関係に影響を与えてしまっていて、
「お前は俺には勝てない」
なんていう発言が、
あたかも人間の階級を決めつけているかのようで、それがとてつもなく嫌だったのだと思います。
勝負は勝負、友達は友達。
当時は、そんな割り切った考え方ができない環境でした。
体験その3、中学校の試験の成績をめぐって、あの発言が再び
上記の水泳大会と似たような体験が、中学校にあがっても起きました。
今度は、学校の試験の成績がテーマとなりました。
中学1年の時、ある子が急に私に、
「お前は俺には勝てない」
って言ってきたんです!
アオイソラさんのいた学校って、そんな奴ばっかりだったの?
こうやって同じ話題の出来事を拾い集めると、確かにそんな環境だったのかなと思えてきますね…
少し話はそれるのですが、私が外見上「歯向かわない人間」だったから、
「お前は俺には勝てない」
なんていうセリフが言えたのだと思うんです。
それに、学生の頃から、私は思ったことがなかなか言葉になりませんでした。
言葉にするのに時間がかかっていました。
今でもそうです。
だから当時も、歯向かわなかったのではなくて、歯向かいたいけど、その前にじっくり考えていた、というタイプの人間でした。
それで、家に帰ってしばらくしてから、状況の全体像が呑み込めて、やっと言い返す言葉が見つかるということはよくありました。
ちなみに、学校の試験のことで「お前は俺には勝てない」と言ってきた生徒は、先のA君とは全くの別人物です。
そのぐらい、私の通っていた学校では、勝ち負けの価値観が支配していたということなのかもしれません。
私自身も例外なく、勝ち負けの価値観に支配されて、翻弄されていた同類なのだと思います。
ここでもやっぱり、人間関係が悪くなりました。
学校の試験の成績で争ったりしなければ、仲良く過ごせたかもしれない人がいました。
でも、試験の成績で争うようになると、ケンカまではしないけれど、心理的にいがみ合うような雰囲気ができてしまっていました。
意味ないですよね…。
さて、それからもう一つ、私には勝ち負けに関する苦い体験があります。
次にお話しする体験その4は、今回どうしても外せない体験談になります…。
体験その4、勝ち負けに翻弄されて、私自身が嫌なことを言う高校生になってしまっていた
高校生の時でした。
かなり暗黒の高校時代だったことは、プロフィールに書かせて頂いたので、ここでは割愛します。
進学校に入学したけれどついていけず、でも、なんとか自分のプライドを保とうとすることで精一杯でした。
結論から言うと、私は一度だけ、これまでの体験とは逆のことをしてしまいました。
逆といっても、「お前は俺には勝てない」なんてことは言わないです。
がんばって勉強している同級生に、ひどいことを言ってしまいました。
「そんなに勉強してどうするの?」
自分も勉強しないといけない状況に置かれていることくらい、十分わかっていたはずなのに、がんばっている人に対して、侮辱するような発言でした。
実はこの発言、私自身が高校で軽くいじめられており、その時に何度も言われた発言でもありました。
自分がされて嫌だったことを、抵抗しない他の同級生に対して、自分がしてしまったのです。
「○○君、なんか嫌な感じ」
そう言われて、私は、自分の心の弱さを痛感しました。
今でも、悪いことをしたなと思っています。
進学校の勉強の勝ち負けに翻弄された結果、人間関係をこじらせて、相手を傷つけ、自分の心も傷つけてしまった、というお話しでした。
学校の生活が嫌いになるくらいの勝ち負けって、そんなに重要?負けたら意味ない?
勝ち負けの世界で生きた年数が長ければ長いほど、何をするにも、勝ち負けの基準で物事を見てしまいがちではないでしょうか。
社会人になったら、今度は仕事の勝ち負けがあり、収入の勝ち負けがあり、立場の勝ち負けが存在していました。
社会人になって1年後くらいに実家に帰ると、
「同級生の誰々は年収1000万円稼いでいるみたいよ」
とか聞かされて、なんとも嫌な気持ちになりました。
それがどうしたのさ!
と思うのですが、私自身、勝ち負けの基準でその話を聞いていることに気がつき、情けなくなったりもして。
その頃は、そこまで深く考えていませんでしたが、
今は、その勝ち負けというものについて、立ち止まって考えることが多くなりました。
趣味の世界ですらそうです。
私はマラソンを趣味にしていますが、ここでも勝ち負けが深く関わってきます。
…特に、昭和世代の人なんかは、順位のことをすごく気にします。
「フルマラソンをどれだけのタイムで走るの?」
「順位はどうだった?」
「そんなに走っていたら優勝できるの?」
もう、うんざりするぐらい言われました(笑)
そういう方々は、実際にそういう世界に長く生きてきた世代の人達なので、仕方ない部分はあると思います。
ですが、もうそういう時代じゃないのだと思います。
少なくとも、私にとっては、もう勝ち負け一色の世界観は、もう無理です。
なぜなら、
「そんなに走っていたら優勝できるの?」
と言われたからといって、
「なにくそ~!がんばってやる!見返してやる!」
とは思えないからです。
それに、「そんなに走っていたら優勝できるの?」と言われたら言われただけ、嫌な気分にしかならなかったのです。
この辺のことが、以前からずっと疑問でした。
「常に、誰かに勝たなきゃいけないのか?誰かに勝つことを目指さないといけないのか?」
マラソンで順位とか「優勝したんか?」とか言われるたびに、嫌な人達だなと思って、ちょっと軽蔑すらしていましたが(笑)、これって真剣に自分と向き合ってみると、自分自身が勝ち負けの世界にどっぷりだからじゃないかとも思います。
あ、別に、
「運動会で手をつないでゴールしろ!」
と言いたいのではありません。
でも、そんな学校が一時期現れたのも、勝ち負けの世界に対して、多少なりとも疑問を抱いたからではないでしょうか?
確かに、なにかしらの疑問があったから、手をつないでゴールする運動会が発生したのよね。
勝ち負けを決めるのはかまわないんだけれど、それをして喜んでいるのは、いつも勝っている側の人達です。
「そういうものなんだから、仕方ないよ。強くならなきゃ。それも一つの学び」
という一言で、これまで片づけられてきて、手をつないでゴールする運動会が一方的に批判されて、勝ち負け一辺倒の社会に関してはロクに議論もされずにそのまま来てしまったのが今なんじゃないでしょうか?
体育の時間が嫌になる学生だって、たくさんいると思います。
体育でうまくできる子が勝ち組で、うまくできない子は負け組、みたいな世界がまだあるんじゃないでしょうか?
勉強でもそう。
仕事でもそう。
…なんか、もうね、ずーーーっと勝ち負けの世界なんです!
「そういうもんなんだから、仕方ないよ。強くならなきゃ」
そう言われ続けて、これまでずーーーっとこらえてきましたが、それによって得られるものって、「悔しさ」とか、「頑張ってもどうしようもない相手がいる」とか、そういう楽しくない感情を伴っていました。
「それが人生だから」
と思うでしょうか?
でもね、そう言って諭してくる人たちは、あなたの人生の責任を背負ってくれるわけでは絶対にないんです。
学校が嫌いになるぐらいの勝ち負けの価値観を押しつけられたとして、
そしてそれがあなたを苦しめていたとして、
誰も、あなたの人生の責任を背負ってくれないんです。
そう考えると、勝ち負けに振り回されるなんて、バカバカしくないですか?
何度も言いますが、勝ち負けに振り回されて、必要以上に勝ち負けを意識するなんて、本当に意味のないことなんです。
意味のない勝ち負けに頼らずに自己肯定感を高める方法~学校生活が嫌いになるその前に~
では、勝ち負けに頼らない生き方ってどんな生き方でしょうか?
勝ち負けを意識しているうちは、勝ち負けが自己肯定感を高める唯一のツールだと考えてしまっています。
本当はそうじゃないのに、です。
なので、勝ち負けに頼らずに自己肯定感を高めるようにしてみませんか?
方法は以下の2つです。
- 夢中になれることをする(※ただし勝敗部分に夢中になるのとは違います)
- 人に喜んでもらえることを無理のない範囲でする(助け合い)
この2つって、自分から進んでやるようなイメージですよね。
しかも、その行動には、幸福感がありますよね。
シンプルかつ単純ですが、他人との比較(勝ち負け)に頼らずに自己肯定感を高めるには、この2つの方法が間違いなく効果的です。
注意してほしいのは、夢中になることをしていくうちに、いつの間にか他人と比較してしまっていた、というような場合です。
目標がいつの間にか、他人との比較になってしまっていた、なんていうことが、私にはありました。
そんな時に思い出して欲しいのが、純粋に夢中になってやれていた時のことです。
他人との比較で得られるものなんて、たかがしれています。
そういう意味では、今現在、オリンピックの開催可否について未だにはっきりしていませんが(2021年5月21日現在)、オリンピックの順位争いも、もしかするともうすでに過去の価値観なのかもしれません。
物事がうまく進まないことには必ず原因があって、それは、パッと見はコロナ禍のせいかもしれませんが、実は、「本質的に時代遅れになっているからうまくいかない」という可能性を考えてみたほうがいいのかもしれません。
勝ち負けの考え方だけでは、人に喜んでもらえることをした時の幸福感は得られません。
まとめ:勝ち負けに振り回されるのは意味ない!学校生活が嫌いになる前に
先にも書きましたが、私は小学5年生の時、マラソン大会で同級生に負けたことが悔しくて、みんながいる場所で大泣きしたことがあります。
誰でも経験があることかもしれません。
私の場合、そのことをしばらくひきずっていました。
負けた相手が親友でした。
親友とは、それからしばらく会話をしませんでした。
当時の担任の先生は、「負けてもへこたれるな!あきらめるな!」と言い続ける精神の持ち主でした。
そんなことを言われて余計に私は、
「負けることってそんなによくないことだったのか」
と落ち込んでいました。
勝ち負けを決めることが悪いのではありません。
勝ち負けに重きを置き過ぎることが良くないのです。
もちろん、負けたら悔しいです。
学校での大会、試験の結果、進学先…。
そんなことが人生のすべてじゃないんだと、心の中ではわかっていても、いざ学校に行くと、人と比べてしまう…。
そんな気持ちも分かります。
でも、それがきっかけで人間関係に悪影響が出るなんて、何か違うんじゃない?…という思いがあって、この記事を書いた次第です。
今回、勝ち負けに頼らずに自己肯定感を高める方法をお伝えしました。
- 夢中になれることをする(※ただし勝敗部分に夢中になるのとは違います)
- 人に喜んでもらえることを無理のない範囲でする(助け合い)
自分のメンタルのあり方をいきなり変えるのは、難しいと思います。
でも、上に挙げた2つの方法を少しずつでいいから、日常生活に取り入れて、継続していけば、あなたの自己肯定感は自然と高まるはずです。
そうしているうちに、勝ち負けとは無縁の世界にたどりつけると思います。
学校生活が嫌いになる前に、いや、もう嫌いになってしまっていたとしても、ご紹介した方法をぜひ試してみてください。
みなさんの学校生活の参考になれば幸いです。
このブログがきっかけで、少しでも気持ちが楽になるのなら、本当に嬉しいです。
素敵な学校生活を過ごしてください。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!
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